あさしょうりゅう
2010-02-05


アーネスト・ウッドラフによる買収から4年が経った1923年、アーネストの息子のロバート・ウッドラフ (Robert W. Woodruff) が父親の反対を押し切って社長の座に就く。以後ロバートは60年以上も同社に君臨し、経営の采配を振ることになる。折りしも1920年代、禁酒法によりアルコールが販売禁止になり、ノンアルコール飲料の売れ行きが伸びた。その中でロバートは、広告に力を入れると共に瓶入りコカ・コーラの拡販にも注力、品質管理を徹底した。

またコカ・コーラが海外へ進出したのもこの頃である。コカ・コーラ本体が原液を製造・供給して、ボトラーが瓶詰めするというスタイルはここでも採用された。特にドイツでは1930年に現地法人の責任者となったマックス・カイトによって売り上げを伸ばし、ベルリンオリンピックでもコカ・コーラを提供する栄誉に与った。しかし、第二次世界大戦が勃発し原液の輸入が制限されると何とか原料を遣り繰りしながら、乳清とフルーツの絞り粕を原料に新たに飲料を製造。これはファンタと名付けられて、後にコカ・コーラの世界的な商品となった。

 「技術顧問」 [編集]
世界大恐慌の打撃は軽微に済み禁酒法の廃止も左程業績に響かなかったものの、1930年代に入るとペプシコーラが低価格路線で販売攻勢に打って出てコカ・コーラの地盤を脅かし始めた。

が、第二次世界大戦が始まると、ロバートは以下の様に宣言し戦争への協力姿勢を示した。

我々は、軍服を着けた全ての兵士が何処で戦っていようとも、またわが社にどれだけの負担がかかろうと、5セントの瓶詰めコカ・コーラを買えるようにする。

加えてロビー活動を熱心に行い、その結果コカ・コーラは「兵士たちの士気高揚に果たす重要な役割」を持つ軍需品として認可。コカ・コーラへの砂糖の配給制も免除される特典も受けた。更に、政府の出資で世界60ヶ所にボトリング工場が建設され、そこで働くスタッフは技術顧問(TO)として軍人同様の待遇が与えられた。

当然のことながらアメリカ軍の指揮官にも、コカ・コーラは人気の的だった。中でもドワイト・D・アイゼンハワーは、1943年6月29日にジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長に以下の電報を送っている。

300万本の瓶詰めコカ・コーラ、月にその倍は生産できるボトリング装置一式、洗浄機および栓を至急送られたし

マーシャルはこの電報を受けて、海外の駐留部隊に必要且つ便利な物品を充分な量入手させよと命令書を発している。

また、ソビエト連邦の指揮官だったゲオルギー・ジューコフも、コカ・コーラが大のお気に入りだった。アメリカの飲み物だと言うことが判らないように、マーク・クラーク将軍を介して無色透明のコカ・コーラを特別注文して密かに送らせている。

指揮官ばかりでなく前線で戦う兵卒にも、コカ・コーラは大人気だった。イタリア戦線ではコカ・コーラ1瓶が4,000ドルの値をつけたこともあり、ソロモン諸島の戦いでは日本の戦闘機を撃墜した褒美としてコカ・コーラ1瓶が与えられたという逸話すら残っている。更にコカ・コーラの空き瓶は、代用の電気絶縁体や(戦闘機のタイヤをパンクさせるための)"爆弾"・(非常食とする)ウミガメを捕るための武器・小便器として使われたりもした。瓶を積めるケースは郵便箱や道具箱として重宝したし、コカ・コーラで歯磨きをする兵士もいれば、恋人にコカ・コーラで膣を洗うのを薦めるのもいたくらいである。

極めつけは、ある技術顧問がカンヌの将校クラブでカトリック教会の神父相手にコカ・コーラで法王に祝福を受けて貰えば?と冗談交じりに話したところ、バルジの戦いで神父が聖水の代わりにコカ・コーラで洗礼を施していたのを目にしたというエピソードであろう。

 資本主義の象徴 [編集]
 
キリル文字のロゴが描かれたコカ・コーラの缶

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