そんな自然療法家の一人に、ジョージア州アトランタを拠点に活動するジョン・S・ペンバートン (John Pemberton) がいた。南北戦争で負傷したペンバートンはモルヒネ中毒になっており、中毒を治すものとして当初注目され始めたコカインを使った薬用酒の開発を思いついた。この種の薬用酒には既に類似品が多く出回っていたので、ペンバートンは、ワインにコカインとコーラのエキスを調合したフレンチ・ワイン・コカを精力増強や頭痛の緩和に効果のある薬用酒として1885年から売り出した[3]。
フレンチ・ワイン・コカは「ドープ(dope=麻薬)」と言う渾名で人気を博したが、やがてコカインの中毒が問題となるとともに禁酒運動の席巻によりフレンチ・ワイン・コカが売れなくなる恐れが出てきた。たまたま、うっかり炭酸水を混ぜてしまったものを風味付けのシロップとして売り出すことにして、ペンバートンのビジネスに参加した印刷業者のフランク・M・ロビンソンによってコカ・コーラと名づけられた。このコーラは1886年5月8日に発売されている[4]。
エイサ・キャンドラーによる発展とボトリングの採用 [編集]
1913年のコカ・コーラの広告ペンバートンのコカ・コーラはビジネスとして成功したものの、健康を害したペンバートンは早々とその権利をたった1ドルで売却してしまう。更に権利関係の複雑さから数年間は人から人へと権利が移り裁判で争うこともしばしばだった。
結局、コカ・コーラの権利は1888年にエイサ・キャンドラー(後にアトランタ市長)の手に落ち、キャンドラーはペンバートンの息子らと共にコカ・コーラ・カンパニーを設立する。Coca-Colaのロゴ・Delicious and Refreshing(おいしく、さわやか)のキャッチコピーと一杯5セントの大量販売、更に原液のトレード・シークレットによる機密保護によってキャンドラーのコカ・コーラ・カンパニーは多くの収益を得た。
この時代において特記すべきなのは、瓶詰めの販売方式を採用したことであろう。1899年に弁護士のベンジャミン・フランクリン・トーマスとジョセフ・ブラウン・ホワイトヘッドは、キャンドラーに直談判してコカ・コーラの瓶詰め権利を取得。二人はそれぞれボトリング会社(親ボトラー)を創立し、その会社が更に全米各地のボトリング工場(現地ボトラー)とフランチャイズ契約することでコカ・コーラは広く全米に普及していった。ただ、最初のうちはボトリング技術の未熟から瓶が爆発する事故も頻発し、1913年に品質管理と訴訟対応のためにボトラーをボトラー協会の下に組織化することになった。そして1916年にはコーラの瓶の標準化を行った。
FDAとの紛争 [編集]
1903年、アメリカ国内でのコカイン販売が禁止される。このためキャンドラーは原液の処方からコカインを取り除くことで事態に対処するが、一方で内国歳入庁との裁判闘争や類似品や商標の侵害に対する訴訟に明け暮れていた。
しかし何よりもキャンドラーを悩ませたのは、ハービー・ワシントン・ワイリー率いるアメリカ食品医薬品局 (FDA) との長きに渡る紛争なのは間違いない。FDAは、コカ・コーラに含まれているカフェインの毒性やボトリング工場の衛生の悪さを問題視し、1909年に原液を押収した上で裁判に訴えた。結局のところ(FDA側の証人の主張が余りに不適切に過ぎたため)コカ・コーラ・カンパニーは裁判に勝ったものの、原液に含有しているカフェインの量を減らさざるを得なかった。
ロバート・ウッドラフの登場 [編集]
FDAとの紛争に決着がつき、第一次世界大戦下の砂糖相場の乱高下を乗り切ったが、1919年に投資家のアーネスト・ウッドラフがキャンドラーにコカ・コーラ・カンパニーの企業買収をもちかける。キャンドラーは多額のキャピタルゲインを得て経営から手を引き、新たにウッドラフによってデラウェア州で設立された会社が、コカ・コーラ・カンパニーの商標と事業を引き継いだ(このため公式的には1919年設立になっている)。
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