入門
15歳でモンゴル相撲を始め、ナーダムの相撲少年の部で優勝した。
1997年に日本の明徳義塾高校に相撲留学し、2年後に若松親方(当時、現高砂親方)によるスカウトにより、高校を中途退学して角界に入門した。
幕内昇進以後
2002年/2003年
2001年1月場所に新入幕し、翌年7月にモンゴル出身の力士として初めて大関に昇進し、同年11月場所、翌年1月場所に連続優勝して横綱に昇進した。ただし2002年9月の貴乃花戦に敗れた際、花道を引き上げる際に「畜生!」と大きな声で叫んだり、支度部屋で「怪我をしている左足を狙えばよかった」と発言したりするなど、当時からその品格が問題視されていた。
2003年、モンゴル人女性と結婚し、またこの年、長女が誕生した。同年5月場所、モンゴルの先輩旭鷲山との対戦で敗れた際土俵上で審判に対して物言いを要求、肩がぶつかった旭鷲山をにらみつけ、さがりを振り回した。さらに翌7月場所の対戦では髷を掴み反則負けとなり、取組後の風呂場で口論となった後に旭鷲山の車のサイドミラーを破壊。この場所は頸部挫傷により途中休場した。
2004年/2005年
2004年1月場所・3月場所で、2場所連続全勝優勝(30連勝)を果たした。
5月場所は6日目(同年5月14日)に平幕の北勝力に敗れて連勝が35で止まり、最終的にこの場所は2敗となったが、千秋楽(5月23日)にモンゴルの後輩、白鵬が立合いの変化で北勝力を破って「援護射撃」を果たすと、自身も結びの一番に勝って迎えた優勝決定戦で北勝力を破り3場所連続優勝を達成。部屋、一門の枠を超えて白鵬と喜びを分かち合った。
7月場所も13勝2敗で優勝。1996年の貴乃花以来となる、4場所連続優勝。2004年11月場所から7場所連続優勝(従来は1962年7月場所〜1963年5月場所、1966年3月場所〜1967年1月場所に2度記録した大鵬の6場所連続)、2005年には年間6場所完全優勝(従来は1966年の大鵬、1978年の北の湖、1986年の千代の富士、2004年の自身の5場所)、年間成績84勝6敗(従来は1978年の北の湖の82勝8敗)と、様々な記録を更新した。
2006年/2007年
8連覇を目指した2006年1月場所では11勝4敗に終わる。翌3月場所は優勝したものの白鵬に決定戦進出を許し、5月場所では2日目の若の里戦に敗れた際右肘を痛め3日目から途中休場するなど、同年前半は力の衰えも指摘され始めたが、7月場所に復帰すると11月場所の全勝を含め翌2007年1月場所まで4場所連続優勝し、史上5人目、外国人力士では初となる20回目の優勝を果たした。同場所千秋楽翌日の1月22日、『週刊現代』に自身の八百長疑惑が掲載された。後に朝青龍を始めとする現役力士と協会が起こした訴訟で、東京地方裁判所は被告である講談社側に、朝青龍へ1100万円を支払うことを命じた。詳細は武田頼政を参照。
翌3月場所は初日から2連敗。その後は連勝を続け、千秋楽で千代大海を立合いの変化で破って13連勝し優勝決定戦に持ち込んだものの、決定戦では逆に白鵬に立合いの変化で敗れた。
さらに5月場所は9連勝の後10日目に安美錦に敗れると調子を崩し、12日目からは4連敗で10勝5敗に終わり、横綱昇進後初めて2場所連続で優勝を逃すとともに、白鵬の連覇と横綱昇進を許した。翌7月場所では初日に再び安美錦に敗れ、前場所から続けて5連敗を喫した。これらの不振に関しては前述の八百長疑惑報道の影響も指摘された。2日目からは14連勝し、3場所ぶりの優勝、新横綱白鵬に対し先輩横綱としての意地を見せるとともに復活を果たしたかに見えた。
しかし同場所後の7月25日、「左肘内側側副靭帯損傷、左尺骨神経障害、急性腰痛症、第5腰椎疲労骨折で約6週間の休養、加療を要する」とした診断書を協会に提出、夏巡業(8月3日から20日まで)の不参加を届け出たが、当人がモンゴルで中田英寿らとサッカーをしている映像が同日報じられ、仮病疑惑が噴出[1]。巡業部は帰国後の巡業参加を拒否する方針を固め[2]、8月1日には日本相撲協会から2場所出場停止、減俸30%4ヶ月、11月場所千秋楽までの謹慎の処分を受けた。
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